ぼんやり夜咄

日々のぼんやり

窓から日が昇るのを見ていた

夜明けを迎える前に、私は何になれるんだろうか

 

春が過ぎ、夏を迎え、また春が来た

 

そんなただ過ぎるだけの日々である

 

日々は私の手の中にあったはずだが、いつの間にか、私が日々の手の中にいるようになった

 

明日、明後日……来週

来週が今日になり、明日はいつ迎えたかも覚えていない

 

すぐ後と今の瞬間の境目は知ることができないが、

その境界線を跨いで来たことは夜明けが教えてくれる

 

建物の隙間から日が昇るのが見えた

 

心の底

時々、深い友人が死んだら、それも自殺したらどうしようって思う。

きっと自分を責めるし、なんで私が生きてて、彼女は死んだんだろうって考えると思う。きっと。

 

なんだか心が悲しくなった時、つらくなった時、なんでだろう。自分自身を蔑む。

幸せなことがあった時、うれしいとき、なんでだろう。自分自身が好きになる。

 

どこから自分を見ているんだろう。

自分って何なんだろう。

 

彼女から見た自分は何なんだろう。

私は彼女のことを親友だと思っている。

もう10年以上付き合いがある。

私の暗くて、つまらない性格を変えてくれたのは彼女だ。

 

彼女は、どうだろう。

私は彼女を何も知らない。

 

私が死んだら彼女はどう思うんだろう。

夜が明けるまで

深夜二時

あなたを想って、一人では居れないときがある。

 

 

幸せは赤子の握っている手の中に。

それをどう使うかは自分次第だ。

人と分け合うことで増えていく。

 

一人でも大丈夫、そんなわけない。

いつだって助けを求めてる。

暗い光に照らされている気分だ。

 

美しく生まれた感情は儚く、醜く生まれた感情は脆い。

人はいつも生まれたことを想えと言う。

それで幸せを感じることができるのだろうか。

 

一方で私はあなたが生まれたことを思う。

あなたを作ったすべてが美しいから。

幸せは赤子の握った手の中に。

みんな持ってる。

私もあなたに。

 

 

きれいな太陽の花が咲く、遅い春。

このままでいられるなら、永遠にそのほうがいい。

 

煩悩のとりこ

「ぼんのう」と検索すると例文で「煩悩のとりこになる」とあった。煩悩はとりこになるものなのかと思い、この文を書きたくなった。思えば最近毎日文を書いている。自分の中に収めておくだけでは足りなくて、大学の授業で出すレジュメの自由コーナーも真っ黒になっている。実によい習慣だと思う。

 

 

そもそもなぜ「ぼんのう」と検索したのかというと、「煩悩」という二文字を吉田篤弘先生の『木挽町月光夜咄』で見てふと詳しい意味を知りたくなったからだ。今これを書いていて高校時代に全く同じことをしたことを思い出した。

 

 

考えを言葉にする。思い(想い)を言葉にする。言葉にすることは大切だ。

モヤモヤがスッキリになって頭が冴える気がする。

私は煩悩のとりこであると思う。日々あれこれと妄想を巡らせ、自分のアイディアに浸る。毎日そうしているとモヤモヤが溜まってスッキリさせたくなる。だから今日もこうして文章を書いているのだ。

 

 

大学に入って自分の文章を発表する機会がめっきり減ってしまった。私は特殊な高校に通っていたので、毎週のように400文字の作文を書いていた。そして優秀な作品はまとめられ、みんなに配られる。それに載りたいがためにみんな一生懸命作文を書いていた。しかし、大学で文章を書く機会があると言えば、週に一回の経済学での自由コーナーだけだ。それも先生が読むだけ。個人的には感想を伝えてくださるが、どうも納得がいかない。文章を書かせてもらえると思って取った日本語表現授業も一度しか書かせてもらえていない。文章を書きたいという煩悩が私の頭にはいつもいる。

 

 

文章を書くことは大変難しいといつも思う。書く分には楽しい。言いたいことをつらつらと... ...。しかし、そのつらつらが難しいことに気づいてしまった。

文章を書くときいつも思う。自分の知識はなんて浅薄なんだと。書いてるうちにだんだんと恥ずかしくなって、途中でやめて、また始める。そして途中でやめる。だから文章を書かせてほしいと願うのだ。思えば今までの人生ずっとそうだった。なにかを成し遂げたことのない人生。それでもやっぱり文章を書きたいという煩悩がいつもいるのだ。私の中に。

 

 

いつから文章を書くことのとりこになったのだろう。いつもなにかを考えていて、いつも漠然とした不安に襲われている気がする。ずっとモヤモヤしている。ずっと煩悩がいる。だから私は文章を書くのだろう。

「煩悩のとりこ」とても素敵な言葉だ。